Saturday, January 6, 2024

除雪されていなかった田舎の道

 


北海道に住んでいる皆さんはどこかでこのような標識見たことあると思います。私も田舎の道を通る中で何回か見たことがあります。昨日友達と当別にあるロイズのチョコレート工場に出かけました。帰り道はナビに任せました。ナビの案内は工場から出て、北海道らしいまっすぐな田舎道を通って、バイパスに出るようなルートでした。ナビを従って通っていると、小さな交差点に出ました。ナビからは直進するように促されましたが、目の前には道がありませんでした。このような標識があり、雪がたくさんありました。車に乗っていた一人の友達は「右に行こう」と言い、もう一人は「左に行こう」と言いました。結局左折をしても、右折をしても、バイパスに出れるようにナビは道案内を必ず変更してくれると私たちは分かっていました。私たちは車を止めて春に目の前にある雪が溶けるまで野宿をする選択もあったかもしれません。それはもちろんあり得ない話ですが、クリスチャン生活の中で、そのようなことをしたことありませんか?ナビやグーグルマップへの信頼は神様への信頼に勝る時も過去にあったのは私だけかな?

主との歩みの中で、何キロ先も見える北海道らしい、まーっすぐな道を通っていて、「神様のナビ」である聖書に従い、御心の内に歩んでいるつもりで、行き止まりに会ったことがありませんか?特に違う導きがなかったので、ずっと今のまま進み続けるつもりだったかもしれません。しかし、何かの試練や辛いことが急に起き、自分の人生を激しく揺るがす経験があり、そのまま「直進」するのは理想ではなかったかもしれません。

このようなことに直面すると、決断しなければなりません:

① 雪が溶けるまでそのまま待つ。雪が邪魔をしていること(試練が起きていること)を受け入れないで、神様に怒ることができます。

② 右折か左折をする。神様のナビである聖書はバイパスにどう戻ればいいのか(これから先、主の御心をどう進むべきなのか)を見せてくれるかもしれませんが、時にははっきりわかりづらい場合があります。左折をするのか...右折をするのか...どちらを選らべば、より早くパイパスに着くのかは分かりにくいかもしれませんが、とにかく、どっちかに曲がらないと、ナビは道案内変更をしてくれません。

箴言24:16

「正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。」

私たちは試練に会い、先が見えないからと言って、じっと立っても、神様は「道案内変更」をしてくれません。私たちは先に進まなければなりません。自分を引き上げて、先に進むことを意思で決めると、神様は「道案内変更」をしてくださり、先の道を見せてくださいます。

イザヤ43:18-19

「昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。」

これはバビロン捕囚が起きる前に主が預言者イザヤを通して語った言葉ですが、すでにユダヤ人はバビロンにいるかのような預言です。主は14節にこう言っていました:「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送くり...カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。」バビロン捕囚はいつか終わるという約束が他の預言によってもも与えられました。バビロンから解放される時になったら、ユダヤ人は「昔の事どもを考えるな」と言われます。神様がユダヤでの安らかな生活を激しく覆した時や異邦人の手に渡されて、酷い目に会った昔の事ばかりを考えるのではなく、神様が彼らのためになさる新しいことに目を留めて、希望を持つべきでした。しかしエズラ記を読むと、ユダヤに戻る機会があったにもかかわらず、バビロンに残ったユダヤ人がいたことがわかります。彼らは見えない先に信仰の一歩をするのを恐れていたので、神様がなさろうとしていた「新しい事」を経験することはできませんでした。

私たちは「冬季間通行止め」という標識に来るときには、雪が溶ける春を待つ必要はありません。私たちがその行き止まりに着く前に、神様は「道案内変更」を計画しておられています。神様に頼れば、「道案内変更」されても、その道は必ず最善なものです。神様は私たちをご自分のために用いようとしておられます。

イザヤ43:21

わたしのために造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝えよう。


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